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プロジェクト終了&ご支援の御礼
- この度は【仏師・快慶晩年の作「阿弥陀如来立像」がご本尊。西方院の奈良塀修復プロジェクト。】へのご支援、誠にありがとうございました。
本プロジェクトは令和5年(2023年)7月9日をもちまして、無事終了することができました。
応援してくださるみなさまのおかげで、目標金額を上回る4,391,000円ものご支援が集まりました。また、オンライン上のクラウドファンディングの他、現金による直接のご寄付も賜りました。
心より感謝申し上げます。
つきましては、計画していた修復プロジェクトに加えて、土塀付近の排水設備の整備や、土塀保存に影響を及ぼす高木の伐採、傾倒が甚だしい塀の一部を土台から積み直すなど、当初の目的である土塀の保存に繋がる内容の工事を計画しております。
【着手予定の工事内容】
・土塀の瓦の積み直し
・土塀保存治水の為の排水溝等の設置
・土塀上方に覆いかぶさる高木の伐採
・土塀の土台から積み直し(山門西側の約1m)
想像を上回る多くのみなさまから、多額のご支援が集まり、大変嬉しく感謝の気持ちでいっぱいです。篤く御礼申し上げます。
また奈良・西ノ京にお立ち寄りの際は、修復された土塀を見にお立ち寄りいただけますと幸いです。
今後とも西方院の護持・運営に御支援、ご協力を賜わりますよう、何卒よろしくお願いいたします。
唐招提寺第87世長老・西方院住職 石田智圓 九拝 -
今では数少ない、古都奈良の風情が漂う「西方院」の土塀(奈良塀)。
- 鎌倉時代、奈良・西ノ京に慈禅(じぜん)上人が創建した「西方院」は、唐招提寺奥の院と称され、鎌倉時代に活躍した仏師・快慶の晩年の作「阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)」をご本尊として安置しています。
唐招提寺境内から近鉄橿原線を挟んで西側に位置し、古くからの風情ある土塀(奈良塀)が印象的なのですが、近年、台風や大雨の影響もあって傷みが酷く、早急に修復が必要となりました。
しかし、土を使う伝統的工法による本格的な修復には、莫大な費用がかかるため資金が及ばず、手を付けられていないのが現状です。
そこで、雨水の浸透を防ぐ瓦部分を修復して、現状維持を図ります。
今回設定した目標金額では、土塀の約半分近くの瓦部分を葺き変えることができます。
みなさまからのご支援で集まった金額に応じて、葺き変える瓦部分の長さを調整させていただきます。 -
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盗難に遭う度、奇しくもお戻りになられたと伝わる「西方院」のご本尊。
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- ご本尊「阿弥陀如来立像」の作者である快慶は、鎌倉時代の復興期に活躍した康慶・運慶をはじめとする慶派一門の仏師です。
来迎印を結ぶ美麗なご本尊は、快慶が最も得意とした三尺(約1m)の阿弥陀如来立像の一つで、端正で明快な造形と静かでやさしいお姿は、多くの人たちに親しまれてきました。
江戸時代以降、何度も盗難に遭いましたが、その度に仏さま自らお戻りになられたという伝説も残され、信仰心の篤さをうかがい知ることができます。 -
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唐招提寺の伽藍復興に尽力した僧侶らの墓所や供養塔も見どころ。
- 西方院の境内には、鎌倉時代の唐招提寺の中興の祖・覚盛(かくじょう)上人の弟子で、唐招提寺の伽藍復興に尽力した證玄(しょうげん)和尚の墓所があり、重厚な五輪塔は奈良県指定文化財となっています。
また、江戸時代に西方院で僧侶となり、長谷寺で修業し、南都(奈良)の古社寺の復興に貢献した隆光(りゅうこう)大僧正の供養塔もあります。
2023年6月には、隆光大僧正の御遠忌三百年を迎えます。
樹木が生い茂る境内で静寂に包まれながら、数々の偉業を成し遂げた僧侶らに思いを馳せることができます。 -
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「西方院」の文化財を守り、古都奈良の風情ある土塀を遺すために。
- 西方院は別称「唐招提寺奥之院」といい、鎌倉時代の名僧、慈禅上人の創建以来、本寺である唐招提寺代々の住職の墓所とされてきました。
仏師・快慶作のご本尊や、中興二世・證玄和尚の五輪塔、元禄時代に徳川幕府内で南都復興を支援した護持院・隆光僧正の供養塔などが遺っています。
境内地は縮小したとはいえ、道路側には100mの築地塀が風雨に浸食されながらも、往時の風情を感じさせて、古都奈良を演出し続けています。
ただ、屋根瓦の欠失や歪みが多く見られ、このままでは劣化が早く進むばかりです。
文化財の保存と奈良らしい景観保護のために、本プロジェクトへのご支援を何卒よろしくお願い申し上げます。
唐招提寺第87世長老・西方院住職 石田智圓 九拝 -
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重要文化財 阿弥陀如来像について(奈良国立博物館主任研究員 山口隆介様)
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- 重要文化財 阿弥陀如来像 快慶作
木造 漆箔
像高 約100センチ
鎌倉時代 承元2年(1208)以降、嘉禄3年(1227)以前
唐招提寺の子院、西方院の本尊として伝来した像で、左足枘の外側に「巧匠/法眼快慶」の墨書があります。西方院は覚盛(1194~1249)が示寂して同院に葬られた建長元年(1249)以前に建立され(『招提千歳伝記』殿堂篇別院条)、『本朝高僧伝』巻59「和州西方院沙門有厳(慈禅)伝」により寛元4年(1246)秋以降の建立と知られます。そのため、本像の造立当初の安置場所は明らかではありません。 -
- ヒノキとみられる針葉樹材製で、X線CTスキャン調査によれば、頭体幹部は前後2材を矧ぎ、体部に内刳りをほどこして割首します。頭部は面部を割矧ぎ、この矧面から内刳りし、玉眼を嵌入しています。両肩以下の体側部に別材を矧ぐ木寄せは、快慶が「アン(梵字)阿弥陀仏」と称した無位時代に主として用いた技法であり、法眼時代においては京都・大行寺阿弥陀如来像があるのみで比較的めずらしいといえるでしょう。
像の表面は、頭髪を青色とするほかは全身に漆箔をほどこしています。両手第2指先を欠失し、右手第5指、肉髻珠、白毫は後世に補われたものですが、保存状態はおおむね良好です。「巧匠/法眼快慶」の銘記により法眼時代の作と判明し、右胸下方にのみ覆肩衣のたるみを作る着衣形式から、法眼時代でも比較的早いころの作とみられます。建暦元年(1211)に快慶が制作した岡山・東壽院阿弥陀如来像と比較すると、左前膊外側にかかる袈裟の端の衣文の条数が少なく、両足外側の裙裾の折りたたみを品字形とせずに細かなプリーツとするなどの小異があります。 -
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- こうした特徴は法眼時代の作品よりも無位時代、とくに建仁3年(1203)に快慶が制作した東大寺阿弥陀如来像と共通しており、無位時代の要素をとどめた法眼時代初期の作とみなすことができます。面部や胸腹部にみる、いまだ形式化されていない自然な肉どりもふくめ、制作は建暦元年の東壽院像をさかのぼるとみてよいでしょう。
西方院の本尊は、快慶が生涯に数多く制作した阿弥陀如来像のなかでも屈指の優品であり、ながく後世に伝えてゆくためにも皆様のご支援をお願い申し上げます。
奈良国立博物館主任研究員 山口隆介 -
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世界遺産・唐招提寺について
- 奈良時代には、正式な僧となるための「受戒(じゅかい)」という制度が伝わらず、聖武天皇は中国・唐から「受戒」の折の師となれる高僧を招こうと、興福寺の僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)を遣わせました。
高僧・鑑真和上に出会えた二人は熱心に説得し、渡航を決意した鑑真和上は、多くの弟子たちと苦難の末に来日しました。そして、東大寺に戒壇を築き、聖武太上天皇をはじめ400人余に戒を授けたのです。
鑑真和上は、来日から5年後に西ノ京に移り、戒律を学び実践する道場・唐招提寺を開きました。
そして、鑑真和上を慕う皇族・貴族の寄進で伽藍は徐々に整えられ、建造物の多くは奈良時代の貴重な遺産として今に受け継がれています。
講堂〈国宝〉は、平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築したもの。
また、日本最古の校倉造(あぜくらづくり)で知られる経蔵〈国宝〉は、新田部親王(にいたべしんのう)旧宅の蔵を改造した建物です。
井上靖の小説『天平の甍』にも登場する天平の名建築・金堂〈国宝〉には、ご本尊・盧舎那仏坐像〈国宝〉、薬師如来立像〈国宝〉、千手観音菩薩立像〈国宝〉などが安置されています。
御影堂(みえいどう)には、晩年の鑑真和上のお姿を写したと伝わる日本最高の肖像彫刻・鑑真和上坐像〈国宝〉が安置され、開山忌(例年6月5日~7日)に、お像が納められた厨子の扉が特別に開かれます。 -