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開祖ゆかりの寺から
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- 不徹寺庵主・松山照紀(まつやま・しょうき)が移築したいと願った茶室は、盤珪禅師が民衆と共に修行を重ね、後に開山した「龍門寺」にあり、長らく使われていなかった建物です。築年不詳、戦前に移築されたと伝わっていました。
不徹寺への移築話が持ち上がったのは3年前の冬。前住職河野太通(こうの・たいつう)長老(妙心寺派元管長・元全日本仏経会会長)から「私が龍門寺に住山して20年、使っていない茶室がある。茶の心得のある貴女に差し上げるから不徹寺に移しませんか」と、お声を掛けて頂きました。
その茶室「不生(ふしょう)庵」は「不生不滅」の「不生」を意味していますが、「不滅」の文字は書かれていません。
「生まれないのであれば滅することもない。ならば不滅は必要ない」
盤珪禅師が感得した悟りの境地、誰もが生まれながらに持つ囚われの無い、あるがままの心「不生の仏心」、その悟りを命名した茶室でした。松山はその茶室を是非不徹寺にと願い、長老にお受けする旨、お伝えしたのです。2020月12月、龍門寺の「不生庵」は解体され、敷石や壁土なども含め、不徹寺に運ばれてきました。 -
盤珪禅師の教えを継いだ ”田ステ女”の寺に
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- 移築することになった「松壽山(しょうじゅざん)不徹寺」は姫路駅から南西に車で30分。寺社が数多く建つ網干区にあります。
「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」
と6歳で詠み、後に「元禄の四俳女」と呼ばれた田ステ女(でん・すてじょ)が元禄元年(1688)に創建。築300年の禅堂を受け継ぐ尼僧庵です。40歳を過ぎて出家したステ女は、盤珪禅師と出会い師事。龍門寺で修行を重ね、後に「貞閑」と改名。仏道を志した多くの女性のための寺「不徹庵」を同区浜田に創りました。しかし、元禄11年(1698)、完成前に亡くなっています。
ステ女が亡くなって300年余を経た今、その尼寺に、師である盤珪禅師に由来する茶室「不生庵」を女性のために移築したいと思っています。 -
茶室にある「茶禅一味」
- 禅宗の開祖栄西が日本にもたらした茶の湯(茶道)ですが、当時は貴重な薬として、ごく限られた権力者しか飲むことが出来ないものでした。
そして禅は、栄西の教え以降、白隠禅師が修行の戒律を説き、制約の中で自分に向き合う修行方法を打ち立て、その実践は現在も受け継がれています。茶の湯は、時を経て茶器や茶の産地を競い合う娯楽的な流れに変化していましたが、その後、千利休によって禅の精神が取り入れられ、今日に続く茶の湯の形が出来上がっていきました。
後に利休はその境地について語っています。「小座敷の茶の湯は、第一に仏法をもって修行得道することなり。水を運び薪を取り、湯を沸かして茶を点てて、仏に供え人にも施し、我も飲み、花をいけ香を焚き、みなみな仏祖の行いの跡を学ぶなり」と。
茶味、禅味を深く捉えたこの境地は「茶禅一味」、あるいは「茶禅一致」という言葉で今も伝えられています。 -
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あなたを解(ほど)く禅、あなたを包む茶
- 敷居が高いと思われがちな茶と禅ですが、決してそんなことはありません。どちらもが日々重ねている「食べる」「寝る」「働く」、この”生きる”をシンプルに修行としているに過ぎません。
そして今、世相は混迷を深め切迫し、これまで経験したことの無い事象が多発する時代になりました。様々な苦しみ、悲しみ、痛みが溢れる世で、多くの人は毎日を生きています。このような悩みを少しでも軽くし、どう向き合うかは、寺の大切な使命だと思います。
不徹寺は国内でも数少ない尼寺です。現代の世相が生みだす女性ならではの家庭や子育て、仕事、人としての悩み、哀しみもまた多種多様になりました。それらを心に抱き、幾重にも殻で覆って生きている女性たちにこの尼僧庵を訪れてほしいと願っています。寺の門を入り、ある時は禅堂に座り、ある日はまるで胎内に戻るように茶室の”にじり口”をくぐる。背筋を伸ばし、一杯の茶を頂く。「ホッ」と深い息をついたその先に、出合うものは何か。
日常、非日常を問わず安息を求めて行く中から、もう一歩自身を引き寄せ、見つめ、覆った殻を自らほどいていく。
不徹寺の茶室「不生庵」が、そんな場となり、門を出る時、心が少しでも軽くなれるよう役立てたいと考えます。 -
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- 臨済宗妙心寺派
TEL 079-272-0823 -