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松平家、徳川家の菩提寺大樹寺とは?
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家康公の開運パワースポット「大樹寺」
- 大樹寺は愛知県岡崎市にあり、家康公から5代前の先祖、松平親忠が文明7年(1475)戦で亡くなった人々を敵味方関係なく平等に弔うために創建されました。そこから松平家菩提寺となります。
德川家康公19歳のときに桶狭間合戦で今川方についていた家康公は大将である今川義元が織田信長に討たれたため、身の危険を感じて生き残りの家臣と大樹寺に逃れて先祖の墓前にて自害しようとしたところ、13代の貫主(住職)登譽上人により【厭離穢土 欣求浄土】;おん(えん)りえどごんぐじょうど=戦国乱世を厭い離れてみんな明るく暮らせる浄土のような世界をもとめよのことばをいただき運が開けた立志開運の寺院です。
境内には家康公祖父松平清康建立の「多宝塔」重要文化財をはじめ寛永に造営された山門、鐘楼(いずれも愛知県文化財)などが残されています。 -
- ▲【多宝塔】1535年松平清康建立(重要文化財)
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- ▲【山門】寛永18年(1641年)徳川家光建立(愛知県指定文化財)
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- ▲【鐘楼】寛永18年(1641年)徳川家光建立(愛知県指定文化財)
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国の重要文化財障壁画復元プロジェクト
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国の重要文化財 冷泉為恭(れいぜいためちか)障壁画復元プロジェクト
- 安政2年(1855年)1月26日夜半、失火により、本堂、大方丈など主要伽藍が焼失してしまい幕府直轄の寺院であった大樹寺は早急に復元にとりかかります。幕府の財政難から大方丈に従来安置されていたとされる狩野派の障壁画(詳細は不明)は復元されませんでしたが安政4年(1857)に大樹寺の寺費からやまと絵の権威の冷泉為恭(れいぜいためちか1823-1864)に依頼して障壁画145面を完成させました。為恭は尊王攘夷派により障壁画完成7年後に満41歳で殺害されてしまいましたが、太平洋戦争でも被害を受けずに大樹寺に残された作品はその希少価値が認められて昭和29年には145面すべてが重要文化財に指定され、大方丈の障壁画、ふすま絵として使用されていました。
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文化財保護にむけて
- 昭和53年まで大方丈にてそのまま使用されていた障壁画は、明治から大正を経て、昭和40年ごろまで自由に出入りできていた影響で、作品の切り取り盗難をはじめ、長年の雨や露による作品へのシミの発生、猫、ハクビシンなどの小動物による破損により劣化しました。このとき簡易修理のみ行われましたが完全には補修は行われないままでした。文化財保護の一環として大樹寺は昭和53年に国、県、市の補助もいただき文化財収蔵庫を建設して24時間の空調による温度、湿度管理をしながらこの障壁画145面を守ってまいりました。
その後ようやく平成18年から平成28年の10年間にわたり障壁画の「保存修理事業」として145面すべてを補修する「平成の大修復」が行われました。
この際には国、県、市からの補助金はもちろん、たくさんの檀信徒の方々、公益財団法人住友財団様からの御浄財を頂戴し懸念されておりました絵具の剥落防止、カビ除去、捕彩が行われました。
同時に障壁画の一部を拝観コースとして公開していましたが、収蔵庫の空調を24時間稼働させる莫大なコストが問題になり、加えてコロナ禍や空調設備の故障も発生。空調の修理だけでも莫大な費用がかさみ、大樹寺の寺院経営を圧迫する問題になっていました。 -
- ▼現状の大方丈の景観(1部の障壁画は比較の為復元、令和4年11月現在)実物は収蔵庫保管にて保管されてレプリカ作成前には白無地のふすまが設置されています。
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- ▼冷泉為恭の障壁画の実物が納められている収蔵庫外観 (収蔵庫は現在未公開)耐火で耐水仕様。近年温湿度管理を24時間行うことによるランニングコストが寺院経営に影響を及ぼしてまいりました。
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- ▼従来の収蔵庫での管理されている145面のうち約40面を収蔵庫にて保管展示し、残りはラックにて非公開となっていました。
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新しい文化財保護の形と公開に向けて
- この問題を受けまして文化庁、愛知県、岡崎市と対策を進めつつ、拝観される方に向け、今まで将軍の間や、各部屋の一部の襖のみしか公開していなかったことも踏まえ、昭和53年までの風景をもう一度大方丈に復活させて往時の大方丈の雰囲気をご覧いただけるようレプリカでの再現を行う計画が立ち上がりました。今後は収蔵庫を非公開にするかわりに、復元作品にて約90面の主要な部分がすべて実際の大方丈にてご覧いただけるようになります。
また、このレプリカ作品であれば高画質の写真データーがございますので紫外線、雨、露、動物等のいたずらや尿による被害があったとしても、すぐに修復復元作業ができるのもメリットになります。いままで拝観された方も無地の壁、無地のふすまでは雰囲気がつかめず、拝観ルートにおいても素通りしてしまった方が多かった大方丈にスポットを当てて1億5000万画素の精巧な復元作品により往時のすばらしい「やまと絵の世界」を堪能いただくことができます。
また、大方丈庭園とのすばらしいコントラストは大樹寺を訪れる方に心の安らぎを与えていくことでしょう。 -
文化財保護の未来に向けて
- コロナ禍まで公開されていた収蔵庫での拝観は今後は行わず、レプリカ復元作品による大方丈公開に切り替え、文化財保護に努めていきます。
財政的にはレプリカ復元も行わず非公開にすることも考えましたが、希少な重要文化財を公開せずにおくことは今後、文化財の価値、存在感が埋没してしまうことにもつながる危険性もあります。
その意味でも今回の復元プロジェクトは後世に文化財を伝承していくにも一役担うことでしょう。
下の写真は徳川将軍も座ったとされる大方丈の将軍の間ですが障壁画のみ、復元が完成しています。今後、令和5年1月までにすべてにふすま絵約90面の復元作品が収納され大方丈の真の姿がよみがえります。これからの新しい文化財の守り方、変革にあたりみなさまからのご喜捨を心よりおまちしています。
▼大方丈のレプリカ復元前(令和元年)の将軍の間風景です。無地障壁画、ふすまも無地の状態でした。 -
- ▼大方丈の風景。一部の障壁画のみ(令和4年)レプリカ復元終了の風景です。
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- 上記のように随時ふすま絵、障壁画が約90面復元されて令和5年1月までに復元作業を終了する予定です。
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大樹寺第64世貫主ごあいさつ
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国重要文化財『大樹寺大方丈障壁面』復元プロジェクトに込める願いと祈り
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大樹寺第64世・総本山知恩院副門跡 中村康雅(なかむらこうが)
- 戦国乱世の世をおさめ、264年にわたる太平の世の礎を築かれた徳川家康公は亡くなる間際に側近を集め、「遺体は久能山に葬り葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、1周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と遺言されました。爾来、大樹寺は将軍家の位牌祀りの菩提寺として幕府に直轄されることとなり、全国でも指折りの寺院として興隆を極めました。
しかしながら幕府に直轄されるということは檀信徒が将軍家のほかにはないというのが現実です。大政奉還により幕府の庇護を外れると、大伽藍を維持することが困難になります。加えて明治維新による廃仏毀釈運動(祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によってひきおこされた佛教排斥運動)や昭和の世界大戦後の農地解放政策により、大樹寺そのもの存続があやぶまれるようになり、ついには「荒れ寺」と呼ばれるまでになっていきました。
多くの貴重な寺宝が流出する中、かろうじて本尊阿弥陀如来と松平家の先祖の墓(桶狭間の合戦で敗れた家康公を導き2度目のいのちを与えたとされる場所)を中心としたわずかばかりの徳川家ゆかりの品々が歴代将軍の等身大の位牌とともに遺されていました。状況を打開しようと歴代住職が私財を投じるなど苦心し、荒廃する大樹寺を見兼ねた将軍家ゆかりの方々が自らのご先祖を祀る菩提寺とは別に大樹寺の檀信徒となって護持してくださるようになり、なんとか廃寺を免れて現在にいたります。
私自身、大樹寺に入山して5年ほどになりますが、歴代の住職が厳しい情勢の中で徳川家康公の御遺言を固持して将軍家の位牌を護り続けてきた苦悩を肌で感じております。
そんな中にあり今最も維持に苦慮しているのがこの度、ご協力をお願い申し上げる復古やまと絵派の権威・冷泉為恭(れいぜいためちか)の円熟期(35歳ごろ)の作品で国重要文化財『大方丈障壁画145面』です。
作者の為恭は大樹寺の障壁画を描き上げたのちも活躍が期待されましたがほどなくして、尊王攘夷派から命を狙われることとなり、逃亡生活を続けた末に42歳で非業の死を遂げています。それだけに江戸時代の文化と歴史を伝える貴重な作品として昭和29年に障壁画145面すべてが国の重要文化財となっていますが、大樹寺の力だけで維持することは困難であります。
昭和53年に文化庁(国)、愛知県、岡崎市の助言と補助をいただくことで大樹寺大方丈から外して空調管理のできる収蔵庫に安置することができましたが、障壁画が外された大方丈には壁画のない「真っ白な襖」がはめられることになりました。それから44年がたった今収蔵庫の空調を稼働させる光熱費が上昇しさらに空調設備に故障もあり再び莫大な費用が計上されることとなりました。文化財保護は寺院に課せられる大きな役割の一つではありますが大樹寺そのものの存続も危ぶまれる事情の中にあって切実な問題となっています。
このたび文化財修復に携わる京都の「株式会社修美」様の取り持ちにより「富士フイルムビジネスイノベーション株式会社」様から写真撮影など技術面での全面的なご協力をお申し出いただき、江戸時代の日本文化を肌で感じられる精巧な障壁画のレプリカを大樹寺大方丈に戻す唯一の機会を得ましたことで、この機を逃してはならぬという心に至りました。
そこで、より多くの皆様とご縁を結びながら未来に文化財を伝えたいという大義のもと、新たな支援の取り組みであるクラウドファンディングによって広くご協力を仰ぎご支援をお願い申し上げる運びとなりました。
この復元プロジェクトにより文化財はもとより大河ドラマ「どうする家康」でも注目を集める徳川家康公生誕の地・岡崎、将軍家の位牌や松平の祖先が眠る墓が後世に遺るように願うところであります。
また、大樹寺の寺名「大樹」には「将軍」の意味があります。
松平家の子孫から天下の将軍が出ることを願って名つけられそのことが実際に成し遂げられ以来、大樹寺は「立志開運の寺」と拝まれています。
このような寺の縁故を拝し、ご賛同ご支援を賜ります皆様の志が成し遂げられますように皆様の運が開けますようにお祈りを申し上げるところであります。
何卒ご賛同ご支援たまわりますようお願い申し上げます。 -
大樹寺の希少な国重要文化財障壁画を描いた冷泉為恭(れいぜいためちか)とは?
- 冷泉 為恭(れいぜい ためちか、1823年10月20日〈文政6年9月17日〉- 1864年6月8日〈元治元年5月5日〉)は、幕末期に活躍した公家召抱えの復古大和絵の絵師で幼名は晋三。出家後は心蓮(しんれん)。初名は狩野 永恭(かのう えいきょう)、のち冷泉為恭に改める(「冷泉」の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出ではない。また蔵人所衆である岡田氏に養子入りしたため、岡田 為恭(おかだ ためちか)とも言われ、絵にしばしば岡田氏の本姓である菅原姓で署名している。
最高級の絵の具を惜しげも無く用いた濃彩画を得意としたが、障壁画や白描画、仏画にも当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。
江戸幕府側とも交流があったため、尊王攘夷派から敵視され、数え年42歳にして殺害された。
引用文献 「冷泉為恭展 岡崎市美術博物館2014年」 -
狩野派からやまと絵へ
- 京狩野の絵師狩野永泰と、俳人北川梅價の娘、織乃の第三子として生まれ、京狩野9代目の狩野永岳は父永泰の実兄で、為恭の伯父にあたる。父方の祖父も景山洞玉(狩野永章)という絵師であり、三代にわたる京狩野の家系である。両親は初め為恭が絵師になるのを好まず、狂言師にするつもりだったが、為恭は絵師、それも京狩野ではなく大和絵復興を志した。特定の絵師に師事せず、高山寺、神護寺、聖護院、知恩院などの社寺に所蔵される古画の模写や古物の写生を重ね、国学者や有職学者を訪ねて有職故実を学んだ。17歳で既に画才に優れ、89種もの絵巻物を模写していたことが記されている。天保14年(1843年)、幕府の奥絵師で模写に情熱を燃やしていた狩野養信から『年中行事絵巻』の模写を依頼されており、為恭は江戸の御用絵師で最高の格式を持っていた養信からも技量を認められたことを物語る。
紀州藩主徳川治宝が進めた『春日権現験記』の模写にも浮田一蕙らとともに参加した。 - 嘉永3年(1850年)には蔵人所衆である岡田家の養嗣子となり、蔵人所衆の役に就き同年6月3日正六位下式部大掾に任じられ、安政2年1月22日に式部少丞に転じる(『地下家伝』)。岡田家は元は樋口家家臣であった。
引用文献「冷泉為恭展 岡崎市美術博物館 2014年」 -
大樹寺の為恭
- 安政2年(1855年)の火災で堂宇が焼失し、堂宇の再建が行われたが収蔵庫におさめられる現存の障壁画はこのときに描かれた為恭の作品である。
大樹寺の障壁画はこの為恭の作品が最初ではない。火災以前にも障壁画が大方丈にあったことがわかっている。
「参河聡視録、19世紀後半」によると鉄線、牡丹、竹に鶴や御成りの間に松、など為恭の画材と同じものが描かれていることが記されている。
伝えでは狩野永徳(1543年から1590年)とされており多少の時代の矛盾点もあり、定かではないが狩野探幽クラスと考えられる。
焼失後、再建は安政3年2月から翌年の9月まで行われた。建物自体は安政4年の閏5月に完成。障壁画は4か月半で障壁画群がかきあげられた、
今日、為恭は復古やまと絵の画家としてもっぱら認識されているが大樹寺の障壁画制作は京都の「狩野家」に依頼されているのである。
為恭は確かに狩野家の出身である。
父は狩野永泰、伯父には狩野永岳がいた。また、自筆の障壁画目録にも「永徳11世伊勢守永泰三男」と狩野永徳の末裔であることを示している。
大樹寺障壁画の仕事は狩野派の有能な画家として依頼され為恭自身もそれを意識していた。
引用文献 「冷泉為恭展 岡崎市美術博物館2014年」 -
新しい文化財保護のカタチ
- 今回のプロジェクトにより、今まで収蔵庫にて一部しか鑑賞できなかった作品が1億5000万画素という精巧なレプリカにより金箔部の再現、欠損部、汚れたところも忠実に復元されている作品群が実際に大方丈にて鑑賞できることになるのは文化財保護の面からも未来へのプロジェクトといえるでしょう。
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大樹寺の障壁画の数々
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大方丈上段の間(将軍の部屋)
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上段の間円融天皇子日の御遊図(えんゆうてんのうねのひのごゆうず)
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- ▲大方丈の中でも重要な将軍の間は上段の間といわれて、円融天皇子日御遊図(えんゆうてんのうねのひのおんあそびず)といわれ高貴な一族が小松をひき、若菜を積んで遊宴し、千代を祝う様子が描かれている。将軍着座位置後面に描かれている床の間には円融天皇(在位969年-984年)一行が描かれている。王朝文化を象徴する作品を為恭は好んで採用しているのも興味深い。
円融天皇のお顔を描くのがもったいないとのことでちょうど松の枝で顔が隠れる構図で描かれている。 -
1部屋を連続して描いている大パノラマ方式がとられている
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▼大名お控えの間(下段の間)
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- 下段の間(将軍に接見するための控えの間)には茸(きのこ)狩りをするようすが描かれている。平安貴族である公家が好んだ行事であった。将軍の間が子日の図で季節が春に対してこちらは秋の構図である。また、鷹狩に行く様子や牛車も描かれ、草1本まで手をぬかず精巧な筆遣いとやまと絵の美しい彩色は目を見張るものである。
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▼大大名の間(鶴の間)16面
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- 35万石以上の一番位の高い大名の部屋には漢画も意識した構図の鶴が描かれている。羽根を休めたり、羽ばたく直前の様子がかかれたりして生き生きと鶴の生態がパノラマ方式で描かれている。
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▼中大名の間 牡丹の間 14面
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- 35万石未満5万石以上の中大名の部屋には牡丹の絵が描かれていた。
色彩も200年近く経過しても赤色が色鮮やかに残っている。 -
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▼小大名の部屋 鉄仙の間
- 5万石未満の小大名の部屋でいちばん東側に設置された襖絵である。
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2023年1月から放送される大河ドラマ「どうする家康」でも登場!徳川家康公の危機を救った菩提寺
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家康公の危機を救った厭離穢土 欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)
- 大樹寺は家康公から5代前の先祖、松平親忠が文明7年(1475)戦で亡くなった人々を敵味方関係なく平等に弔うために創建された。そこから松平家菩提寺となります。
德川家康公19歳のときに桶狭間合戦で今川方についていた家康公は大将である今川義元が織田信長に討たれたため、身の危険を感じて生き残りの家臣と大樹寺に逃れて先祖の墓前にて自害しようとしたところ、13代の貫主(住職)登譽上人により【厭離穢土 欣求浄土】;おん(*えん)りえどごんぐじょうど=戦国乱世を厭い離れて浄土のような平和な世界をつくるのがお前の役目であると諭され平和な世作りに邁進していきます、もしここで自害していれば平和な世はもちろんのこと戦国乱世が続き歴史が変わっていたのかもしれない重要なターニングポイントです、江戸開府以降は立志開運の寺として徳川将軍家の菩提寺として発展しました。
*厭の読み方は現在大樹寺および岡崎市においては「おん」で統一されていますが「えん」という場合もあります。統一見解はなく、どちらで読んでもいいことになっています。 -
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▲徳川歴代将軍の世界唯一の等身大の位牌が安置されています
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文化財複製事業について
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富士フィルムビジネスイノベーションジャパン株式会社 京都支社文化推進京都工房 吉田謙一 様
- 今回の作成では、特に作品を傷めることを避けるため、非接触での撮影また紫外線がカットされたLEDライトを使用しました。
多視点撮影によりライティングの設定を変え、金の光沢をコントロールし高解像度データを作成いたしました。
墨蹟や絵画の色調だけではなく、質感も再現するため用紙も原本に近い、三椏とパルプが原料で風合いがありながら平滑生や再現性の高い越前和紙を使用いたしました。
印刷方式もルーペでみれば細部の状態までわかるような独自の精緻な方法を採用しています。 -
障壁画プロジェクト応援コメント
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岡崎市美術博物館 学芸員 湯谷翔梧 様
- この障壁画は、短期間で大画面の作品を仕上げた、冷泉為恭の卓抜した技術が見られる点で重要な作品です。加えて、制作に至る経緯が大樹寺に残された記録から判明することも、この作品の価値を更に高めています。
室内を彩る障壁画は、実際に設えられた空間で見てこそ、本当の価値がわかります。賓客が座したとき、どのように見えるのか。庭やほかの調度品との調和はとれているか。為恭は実際に大樹寺を訪ねて制作しているので、そこまで計算して描いているかもしれません。しかし本作は重要文化財に指定されており、保存管理を考えると、本物を設えることはできません。
そこでこの復元プロジェクトが持ち上がりました。現在、将軍御成りの上段の間のみ復元が行われています。富士フィルムビジネスイノベーションジャパンの長年培われた撮影・印刷技術と、修美の国内トップの文化財修復の技が存分に発揮され、近くで見ても、パッと見では複製と気付けないほどの精巧さです。違和感がなさすぎて、かえって技術の高さに気付かれないまま拝観されるのではないかと心配になりますが…笑。
この復元が完成したら、これまでの「見学する」拝観から、「体感する」拝観へ展開することが可能になるかもしれません。
例えば期間や人数を限って、実際に上段の間に座り、為恭の作品に囲まれた空間に身を置く、その空間で抹茶をいただく、さらには宿泊体験など。障壁画が飾られる大方丈自体も愛知県指定文化財なので、建造物の保存や、複製自体の保存といった課題とのバランスは必要ですが、これまでより活用の幅が広がることは間違いないでしょう。「体感する」際に、一目で複製と分かる空間とそうでない空間では、自ずと体感度も変わってくるはずです。
満足してもらえる「体感する」拝観を行ううえで、復元の質の高さは欠かすことができません。近年、文化財の活用が重視されていますが、保存しつつ活用を図るこの復元プロジェクトは、今後の文化財のあり方を示すモデルケースになり得ると期待しています。